㋺ 漢元通宝、漢興元宝、漢裕通宝  [後漢、北漢?]


下図は漢元通宝の小平銭です。下図の真中は多いタイプ。他に背月や背文字など別版多し。

右は銀銭で、背祥雲です。 下図の祥雲は巨星の下に髭があるタイプ。

小平銭に関しては、後漢の鋳造というのは確定と思います。


左の銭は細部が怪しく見えます。    (2013.06.27 真中と右の銭を追加。)




ここから下は怪しい展開の話が続きます。突飛な内容でありますし、根拠は薄いです。

よってスルーして頂いても宜しいかと思います。



下図の左は「漢元通宝 折三銭 背月」、右は「漢興元宝 折三銭 背月」?

左右の古銭は「通」以外がそっくり同じで漢興元宝の方が少し大きい。

という事は、「興」を削って「通」にしたんでしょうか?


そして「興」とは何でしょう?

「興」は渤海を象徴する文字だと思います。後漢の地域には渤海人も多かったと思います。

渤海国の悲しい末裔、興遼の興遼重宝を参照して下さい。



上の2枚と似ている漢◯元宝、漢◯通宝は他にもあります。

下図の「漢裕通宝」。左が銅、右が鉄。あまり見掛けません。


渤海国の地域は鉄の産出が多く鋳鉄技術も高かった様です。←2015.01.07追記。



上記の話を元に考えますと、

何かね、当方は後漢の関連性はあるにしても、後漢じゃない気がするのよね。

後漢は3年間しか無く短かすぎるし。



そこで、後漢の位置付けから渤海や遼の影響を考えてみましょう。

まず唐と契丹(遼)の位置が判らない人は調べてもらい、念頭に置いてお読み下さい。

現在の北京のあたりは中間地点でしょうか? 唐から見て契丹に近い東北地域は幽州でした。


唐末の幽州、盧龍節度使が順天元宝の大鉄銭や永安一十などを作る。


桀燕(895-913)、應天元宝 背天を作る。遼鋳説あり。


後唐(923-936)、天成元宝、清泰元宝を作る。 後唐は大きいので契丹との関係は薄い。


後晋(936-946)、天福元宝、開元通宝 背晋、遼鋳説あり。

↓  石敬瑭が燕雲十六州(936-1125頃)を遼に割譲。遼にすがりつく。


後漢(947-950)、漢元通宝を作る。 後晋の後継だが前轍を踏まずの意思で遼と敵対。


北漢(951-979)、銭は知られていない。 後漢の後継国家。後漢とは違い、遼に協力。

   そして960年に北宋が建国し979年には征服されてしまいました。



以上により、何かと遼がちょっかいを出してきた地域という事が判ります。


そして可能性が高いのは「北漢」ですな。後漢の後継国家ですからね。

北漢の銭は存在が知られていませんが、上図のデカい銭はどうでしょう?

北漢が遼の属国扱いならば、見た目が遼銭風の理由や「興」という文字も辻褄が合います。






真贋は永遠の謎。妄想って、楽しい!

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